これはなに
日記2です。
地獄を見てきました。
GWとは一体なんだったのか
昨日の話なんですが、月曜、暦の上では平日なので当然授業がありました〜
しばくぞ。
宇宙ネコのような顔をしつつ講義を受けたのち、喫煙所で同期(原義)とお喋りをした月曜でした。
この至極平時と変わらぬGWは?
目下最大の悩み
井戸端、もとい灰皿端会議で挙がった話題なんですが、今一番ヤバいことが決まりました。
今期、実験でグループワークをしているのですが当然2留年生であることを隠して活動をしています。
みんなで設計をして仕様とかのレポートを出す実験です。
このままつつがなく2020年度入学生3としてやっていければいいのですがそうは問屋が卸しませんでした。
問題はレポートに書く学籍番号です。
弊学の学籍番号には入学年度の情報も入っているのですが、それってつまり私がレポートを出した瞬間に留(しかも多留)がバレるワケですね。
まだ多留の特大事故物件であることを明かしていない私は──。4
以下こんな未来は嫌だ。
「レポートの学籍番号打ち間違ってるぞw」
「あ〜それ合ってるわ、間違えてんのは学籍番号じゃなくて進級のほうなんよ〜(乾坤一擲のギャグ)」
「あっ……(禁忌の扉)、そうなんですね」
いくら年が離れてるからと言っても敬語だけは使わないでいてくれ。今までもタメだった仲じゃないか。
被害妄想でした。解決策求む。
京都二郎チャレンジ
破茶滅茶な雑踏を極めているGWの京都。
流石に何年も住むとGWの京都二郎の混み具合もわかってくる。
はずだった。
今日の話です
14:00起床わたし「今日は京ニでも行くか」
只今最後尾の方で、経験上およそ100分待ちくらいです。
— ラーメン二郎 京都店 (@jiro_kyoto) 2022年5月3日
ユニバみたいになってるんで、かなりお待ちいただいてます。並んでいただいてる方は熱中症等にお気をつけください☀️
— ラーメン二郎 京都店 (@jiro_kyoto) 2022年5月3日
15時以降は比較的並び少ないと予想してます!
起きがけにTwitterを見たわたし「15:00以降にするか」
15:30に京都二郎前を通過するわたし「あの行列はナニ?」
さすがに一人でアレに並ぶのは嫌なわたし「暇そうなオタクでも呼ぶか」
16:00ごろオタクと合流したわたし「行くぞ〜い」
本日は只今お並びの方で終了となります!🙇♂️沢山のご来店ありがとうございます!
— ラーメン二郎 京都店 (@jiro_kyoto) 2022年5月3日
わたしとオタク「(絶句)」
結局17:00に池田屋開凸しました。よかったね。
良くねぇよ明日の限定食べたいしどうすんだよ。
Re: おたよりフォーム
前回いただいたおたよりの返信です。
PN: 大谷
「馬鹿め!このお便りはデコイだ」
デコイのおたよりってなんだよ。
デコイだからって返信しないことはないぞ!今回もおたよりフォームを設けています。
次。
PN: NAVER
「文章好きなので無理のない範囲で定期的にアップしてほしい。周りの目なんて気にせずやりたいことをやってほしい。マジで楽しみにしてます。」
誰でも書ける普通の文章なんですが、どうやら物好きもいるみたいです。ありがとね。
周りの目はね、残念ながらこれからも気にしますよ。社会的動物だもの。
ウサギにとっての天敵がライオンみたいなもので、ヒトにとっての天敵は社会の監視ですよね。
私は社会にバレないようにコソコソと行動していくつもりです、でも襟足は刈りたいなぁ。
続いて。
PN: ポケモンNo.222
「出席応援してます!」
サニーゴからの応援をいただきました。
GW半ばの講義出るとか、大学生活史上類を見ないぐらい出席を重ねている5ので今後も出席していきたいですね。
ちなみにまぜのっけチャレンジのせいで無遅刻は失敗しています。
遅刻してまでまぜのっけ朝食食べる必要あるんですかね?
ラスト。
PN: 卑下ドライバー
「苦しい」
よりそいホットライン?
個人的に人生は苦しめば苦しむほどよいとされています。
せっかくのカス日記なのでこう考えるに至った経緯をお話しします。
苦痛論
初手謝りなんですが、あんまり推敲をしていないので論理性はごめんなさい。
さて、苦しんでいるとき、人生はZero-Sumか?なんて命題6がよくエセ形而上学で考えられます。
ざっくりと言えば「人生を通じた幸せ具合を総和すると0になるのか?」という問いかけですね。
この問題、一般的には「挫折を乗り越えて大成功した!」みたいな生存バイアスの擬似体験に依拠してZero-Sumでないとされています。
ちなみにこんな話題を振って"Zero-Sum sux! Enjoy your days!"7と言えるほどポジティブな人間は、そもそもこの悩みに直面しません。びっくりですね。
じゃあなんでそんなことを考えてたのかというと、この命題の真偽を決定して、それを基に至上命題である「今の苦しみの先に幸せはあるのか?」ということを考えたかったからです。
だったら人生Zero-Sum問題の真偽に関わらず苦しみを肯定的に捉えればいいじゃん?というモチベーションで苦痛論が生まれました。8
思考プロセスそのものが間違っているというのが苦痛論の言いたいことです。
だいたい人生Zero-Sum問題について思惟しているときにやろうとしている手順って、
- 今苦しんでいる意味を知りたい
- そのために未知の幸福度関数みたいなものがどんなふるまいをするのか考える(ここで詰まる)
- それが分かったら今の苦しみがどういう未来を確定させるのかを考える
- その上で現在の苦しみの価値を考える
じゃないですか。
でも不確定な未来の性質を確定させてから現在を確定するのって難しくないですか?
やるなら普通逆ですよね。
あとこれは詭弁なんですが「人生はZero-Sumか?」みたいな命題自体、苦しみを肯定的に捉えたい情操に端を発しているんじゃないですか?
勝手に情操を決めるなという意見はあると思いますが、そうじゃなければさっさと苦しみに否定的な立場を取って「苦しみは何も生まない、苦しみはカスだからどんどん幸せになっていこう」と舵を切って人生Zero-Sum問題に触れることなく現在の苦しみにケリをつけます。
個人的な苦痛論のロジックはこうです。
- 人生がZero-Sumかどうかは知ったことじゃない
- だから今の苦しみの価値は人生Zero-Sum問題の真偽に左右されない
- だったら苦しみを肯定的に捉えれば生きるのが多少楽にならないか
- 苦しむことを是としよう
- 別に幸福になることは非ではない
- 苦しみが幸福を生んだら嬉しい
- 苦しみは何も生まなくてもいい、じゃないと幸福を伴う苦しみ以外を求めなくなってしまうから
- このように苦しみが何かを生むかどうかは不確定なので、どんどん苦しんで幸福を生む期待値を上げたほうがいい
仏教の教えにだいたい似たような文言がありそう9ですが私の考えている苦痛論はこんな感じです。
個人的かつ悲観的立場としては、人生Zero-Sum問題を悩んだところで不幸に転ぶことは間違いないというのが結論です。
だって悩むぐらいネガティブ思考だったら、Zero-Sumだったときに「幸せになるということはその分苦しむということと等しい」とか思うし、そうじゃなければ「このまま苦しみ続ける」とか思うじゃん。
最近は自分の周りで苦しみの輪(苦しみの輪を提唱したのは別人)が広まってきて「ナイス苦しみ!」といった声かけ運動が興っています。
以上薄っぺらい苦痛論でした。
おたよりフォーム
お待たせしました、おたよりフォームです。
Google Formsの仕様を知らないのでいつリンクが切れるかわかりません。
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